|
カンチャナブリ情報

「カンチャナブリ」って、どういう所?
カンチャナブリの泰緬鉄道のことを深く理解すると、日本の近代史が見えるのです
|
|
かつて日本は江戸時代に鎖国政策をとったことは教科書に書いてありますのでご存知の方が多いと思います。西欧列強のアジア侵略の激化の前に、日本は鎖国によっていわゆるモンロー主義で日本だけでの繁栄を目指しました。
日本は、世界にも稀な純粋な農耕民族国家で、その農耕民族が治めている同一民族の国家は基本的に平和で、少数の異民族との和も尊び、異民族戦争の悲惨さも経験していません。このため、数千年前からアミニズムの神道を信じており、その中に自然崇拝があり、祖先との輪廻を信じている国民です。
日本は征服民族と非征服民族という区分けを経験していないために、和が重要であるという教えや地縁が大切という教えが定着しました。これは世界的にも日本にしかない現象で、それは日本には天皇家という王家しかないことがそれを証明していると思います。
これは封建主義体制を歴史的に経験したかどうかの差だと思われます。日本は江戸時代には藩制度があり、会社組織を経験しています。韓国や中国は中央集権国家体制であったため、多くの人が他人を動かす経営を経験していません。身内や個人的な信頼で経営するという小さな商店しか経験していないことが、現在の日本との大きな差になったように思われます。
葉隠れ思想なども同様だと思いますが、そのおかげで日本では会社に50年、100年という長きに渡ってのノウハウを貯めるようになっています。中国や米国では個人の能力で勝負していますが、個人の仕事期間はせいぜい30年程度のためにノウハウが30年程度で断絶するようになっています。この仕事に対する文化観が何と言っても日本の企業の強みなのです。
江戸時代は日本国内での経済や文化は藩制度の下で発達し、食料は増産され、色んな制度や研究も進み、日本独自の文化が花開きました。しかし、西欧列強のアジア侵略が進む中で、遅れて参加してきたアメリカの黒船の来航によって強制的に日本は開国を迫られました。そして明治維新が起こったわけです。
日本国内的には、薩長土肥の若い政府指導者たちによって日本が侵略されないように富国強兵・殖産興業が目指されていきました。それまでの鎖国時代の閉鎖経済から拡大する市場経済への経済のシステムの変更が促進され、それまで日本独自に育ってきた文化の上に積極的に海外の文化に学び、欧米列強と太刀打ちできる軍事力や経済力をつけようとする涙ぐましい努力の時が続いていきます。
そして、西南の役に代表されるその後の日本の外交戦略を確定する結果となった内戦を経て、極東の植民地化を狙う対ロシア戦略が日本の最大の脅威として認識され、その方向で日本は小国から大国へとなるための努力が続いていきます。
ロシアの露骨な南下戦略の前で、脅威にさらされた日本は自国の防衛上の必要から朝鮮との連携を強めようとしますが、それが原因で日清戦争に発展し、ついには日露戦争にまで突き進んでいきました。2つの戦争に勝利した日本は、その後、清の最後の皇帝溥儀を要して満州国の建国へと進んでいったわけです。
満州国の建国は5族共和を理想とする石原莞爾(昭和12年当時は関東軍参謀副長の肩書きで少将)の働きが大きかったのですが、その後、理想家である彼は疎んじられ、満州は実務家の間で日本の生命線としての位置付けが大きくなり、日本の植民地化の傾向に進んでいきました。
そんなときに、1928年(昭和3年)6月4日午前5時30分、張作霖の乗った特別列車が京奉線(北京━奉天)の皇姑屯(こうことん)駅の近くに立体交叉している満鉄線の鉄橋上で爆破されるという事件が起こりました。これが「張作霖爆殺事件」です。
張作霖はもともとは馬賊で、祖父の代に満洲に移り住んだ漢民族です。ならず者で、若くして無学で粗野な強盗団の首領におさまっていましたが、陸軍大将児玉源太郎がみどころがあるとして、悪事を働かぬよう諭した上で、日本軍の協力者として満洲の治安に当たらせていました。というのも、当時の日本にはまだ関東軍はなく、ロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部があっただけだからです。
満鉄の線路が延びると鉄道や日本人を匪賊や馬賊から守らねばならない。1919年(大正8)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立しますが、当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成でした。日本国内では、当時は軍部の台頭を許さぬ原敬が首相でしたから、馬賊でも利用して鉄道や日本人を守るしか方法がなかったわけです。
そういうわけで張作霖を日本軍は満州の治安におおいに利用しますが、思い上がった張作霖は悪政を繰り返して満洲の住民を苦しめ、巨額の富と軍資金を手に入れ、ついには自分がシナ南方まで勢力を広げて「中国統一」を目指すほどになり、国民党の蒋介石軍との戦いに打って出るようになりました。蒋介石軍に反攻に出られたら満洲は戦場となってしまいます。そこで、現状を見かねた関東軍将校らはついに実力行使に出た、というのが張作霖爆殺事件でした。
張作霖の死後、跡を継いだ息子の張学良は日本軍に対する恨みから敵であった国民党の蒋介石と結んで反日運動を起こし、自分たちが満洲でおこなった悪政に対する住民の怨嗟の声を日本側に向けようとしました。
当時の猛威を振るったアジアでの植民地獲得競争、そして迫り来るロシアの脅威を前にして、日清戦争、日露戦争の原因は日本には1点の非もないと私は確信していますが、大東亜戦争に関しましてはいくつかの日本側の問題もあり、その辺は素直に認めて反省しなければならないと思っています。
大東亜戦争に関する日本側のいくつかの問題ですが、これは一方の当事者として反省することであって、相手国や国際事情などから考えると一方的に日本に責任があるとはとても思えません。あくまでも謙虚な気持ちで日本人としての反省というスタンスでの意見です。
原因は大小色々とありますが、最大の失敗は南京攻略の決定にあると私は思っています。
1936年(昭和11)12月12日、中国の古都西安(長安)で国民党主席蒋介石が信頼していた配下の張学良に監禁されるという西安事件が起こりました。一種のクーデターですが、これがその後の伏線となりました。中国の古都西安(長安)で国民党主席蒋介石が張学良に騙されて監禁されたのです。
蒋介石は抗日戦の前に、まず共産軍を掃滅して中国内部を統一するのが先決と考えており、日本との軽率な戦争への突入は自殺行為であることをよく承知していました。そして、全面的な抗日運動への発展を出来るだけ回避して時間を稼ぎ、その間に産業および軍事力を強化し、日本との戦争が可能な国力を養成するという考えでしたが、無知でお坊ちゃまの張学良にはそんな蒋介石の深謀遠慮の戦略など理解できませんでした。
このようにして張学良は私恨から成安事件を起こしてソ連のスターリンに手を貸すことになってしまい、結果として壊滅寸前であった中国共産党を救い、その後の国民党との国共合作のお手伝いをする役割を演じさせられてしまったのです。
日本軍に父を殺され、その仇を討ちたいと思うのに蒋介石は満洲事変では「不抵抗」を命令し、自分は命令どおり逃げてきたのに蒋介石は本当に抗日の意思があるのだろうか、いつも共産軍との戦いばかりで、おまけに自分の東北軍20万は共産軍と2度戦ってどちらも大敗し、2個師団が壊滅という惨憺たる結果になったのに、蒋介石は兵員の補充を行わずに消滅した師団を編制から抹消してしまった。もしかしたら蒋介石の意図は、『東北軍の共産党討滅が成功すればそれでよし、失敗しても東北軍を弱体化させることができる』と思っていたのではないか?蒋介石が自分を踏み台にしようとするならこっちにも考えがある。日本軍に勝てるのはソ連だ!スターリンだ。スターリンと手を組み満洲に凱旋したい!
苦労と無縁に育ってきた『お坊ちゃん』の張学良は、自己中心で、国際的な視野も戦略もなく、このような浅はかな考えを持つようになりました。
ソ連の思惑は、台頭するドイツに対しての危機感で、そのためには満洲の関東軍が最大の脅威でした。日本とドイツが東と西から攻めてきたら広いソ連といえども危うい。これを防衛するためには支那本土に共産党を含めた「抗日政権」をつくりあげ、関東軍に誘いをかけ、南下させるように仕向ければ、少なくともソ・満国境が手薄になります。共産党を憎む蒋介石さえ落せば、あとは烏合の衆でどうにでもなると考えていました。
ソ連にとって一番困るのは、蒋介石が死んで支那の国内が混乱し、外国勢力が入り込むことです。そして、しっかりと中国共産党が組織固めをしてからならば蒋介石は不要になりますが、それまでは死んでもらっては困るのです。直前にソ・満国境で日本とソ連の戦闘「ノモンハン事件」というのがありましたが、あれはソ連が日本の現在の軍事力を確認するための事件であったとみられています。
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情 に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発しました。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのです。
そのためのカモが張学良でした。交渉能力に長けた周恩来が張学良に接近し、張学良に対してあらんかぎりの敬意を払って篭絡させました。周は学良に、西北軍と紅軍が東北軍に合流したあかつきには全軍こぞって学良を西北地域の王に推戴するであろうかのような幻想を抱かせ、学良は周との最初の会談で「見面礼」として2万大洋(当時の1元銀貨)と20万法幣(1935年以後、国民党政府が発行した紙幣)が贈られています。このように、周恩来によって張学良は簡単に篭絡されてしまいました。
蒋介石は西安事件で共産党との合作要求を受諾しますが、智略家で軍人としても優れ、現地に駆けつけた妻である宋美齢夫人も蒋介石とともに西安での死を覚悟して遺言状を書いて来ているくらいですので、蒋介石の意思を動かすだけの何かがこのときにあったようなのですが、これはその後の歴史の謎とされています。
翌年に発生する盧溝橋事件は、このときから用意されていたものと考えられます。関東軍と蒋介石が紛争を起こさずに国力を蓄えていることこそソ連の脅威であるからです。盧溝橋事件はあきらかに共産党の策略で引き起こされたと現在では明らかになっています。しかし、当時の日本の軍人は単純にその挑発に乗ってしまいました。
西安事件の後、蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で国民党副主席の汪兆銘に日本との和平工作を進めさせ、また反共を信じながら、表では容共を説いていました。しかしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と日本軍の攻撃で敗走を続け、重慶にまで追い込まれました。この状況下では、日本側の条件を呑んで和平を選ぶしかないのですが、それをすれば共産軍に蒋介石打倒の口実を与えます。そこで1939(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、汪兆銘は重慶からハノイに脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進め、日本政府の援助のもとに翌1940年、南京に新政府を樹立しました。三国志の世界の再来です。
蒋介石も汪兆銘も共産党は信じていませんので、日本軍の優勢の前に何れかが生き残れば中国という国家が無くなることは防げるという考えから彼らの分裂は出たことなのでした。そこまで日本軍の攻撃で追い詰められていたわけですし、2人の師である孫文は「日中戦うべからず」との遺訓を残しているくらいですから、日本とは話し合いで解決できる可能性も信じていたのです。
このような状況の中で、特に日本側が最大の判断ミスをしたのは南京攻略だと私は思っています。
1937年12月7日、ドイツは日本陸軍とのこれまでの深いつながりと「日独防共協定」もあるために日本の戦力消耗は望んでおらず、停戦への和平交渉を引き受けてくれました。トラウトマン和平工作と呼ばれているものです。上海戦に破れて南京危うしという非常事態を迎えて、蒋介石はアメリカ大使ジョンソンを招いてアメリカに助けを求めました。そして、ドイツ駐日大使ディクセンが当時の広田外相に面会して蒋介石の国民政府は和平を望んでいるとの覚書を提出しました。
その少し前の7月7日に北支事変が発生したため、北平、天津に居住する邦人1万2千人の保護のために5個師団の派兵を日本陸軍は決めました。その後、上海戦で勝利し、南京もここ数日で攻め落とす勢いに日本軍はあったため、軍部だけではなく政府までも判断を誤り、12月10日には南京総攻撃が開始され、13日には南京は陥落することになりました。7月29日の通州虐殺事件(日本人虐殺事件)での怒りが背景にあったものと思われます。首都南京に危機が迫っているからこそ、蒋介石も恥の上塗りを恐れて日本と妥協できるという「講和の潮時」であり、相手の面子を立ててこそ交渉はうまくいくのに、完膚なきまでに叩き潰されてしまっては恨みと徹底抗戦が残るだけでしかありませんでした。そもそも日本軍は邦人保護のための威嚇としての軍派兵でしたが、それが本格的な日中戦争へと発展していってしまったのでした。
日本政府は南京攻略後に駐支大使トラウトマンに第2次の調停を行ってもらいましたが、国民党政府には無理難題な条件だったことと交渉のタイミングを失していたこともあって蒋介石がソ連に援助を求めたのは当然のことでした。日本海軍も参謀本部も支那との戦争は終わりにしたいと思っていましたが、蒋介石の明確な回答が得られなかったために当時の日本政府は和平交渉を打ち切ってしまいました。
戦争のプロの集団である軍人が今こそ戦争を止める潮時と考えているのに、当時の近衛首相は「…以後国民政府を対手とせず」と日本政府の声明を発表する事態となり、このように文民である政府が「暴走」してしまったため、以後は停戦の交渉相手が無くなってしまいました。この結果、その後の日本は中国との泥沼の戦争にはまり込んでいってしまいました。
このような経過を経て、蒋介石政権に対して英米は大東亜戦争勃発前から大量の兵器や物資の支援を行い、ソ連は中国共産党を指導し、国共合作時には大量の顧問団を国民党に送り込むようになりました。そして日本は汪兆銘の南京政府を支援していったわけです。ソ連は日独が手を結んでソ連攻撃するのを極端に恐れていましたので、日中戦争に日本を引きこんで極東(満州)からの日本の軍事的脅威を軽減し、ドイツのみとの戦いに備えたかったのです。この戦略上の流れが、当時の日本政府には見えませんでした。
その後、英米による援蒋ルートの封鎖のために日本軍は北部仏印に進駐を図り、日独伊3国同盟を結んだため、アメリカは日本に対する屑鉄・石油の輸出を禁止することとなりました。石油が止まって困ったのは海軍で、そこで今度は蘭印(インドネシア)の石油を狙い、昭和16年7月、南部仏印へ進駐を図りました。この行動がアメリカの逆鱗に触れ、大東亜戦争の勃発が避けられなくなってしまったのです。
日本は米英との戦争は必死な状況に陥りました。ドイツと戦うソ連にとって、日本が満洲国境から攻めてくることほど怖いものはありませんが、米英との戦争は必死な状況となりましたのでドイツ戦に安心して専念できるという、まさにソ連の思い通りの状況に戦局は展開していきました。
軽率な南京攻略(トラウトマン工作の失敗)、そしてむやみに戦局を広げて南進すれば本当の敵に対して備えが手薄になることは軍人の常識ですが、近衛首相や軍の「統制派」の人々の意見によってその常識が覆され、日本は勝てない戦争へとはまりこんでいってしまいました。
何でこんなバカな状況にはまり込んでいったのか、その答と目されているのがゾルゲ事件と呼ばれているものです。日本でスターリンの指示を受けたゾルゲ諜報団の摘発が行われたのは1941年(昭和16)10月18日、そして事件が公表されたのは昭和17年5月16日でした。元朝日新聞の記者だった尾崎秀美(ほつみ)は中国通として近衛首相のブレーンとなり、色んな政策提言をしますが、ソ連のスパイであるゾルゲ諜報団の重要な一員だったのです。
彼らの働きで近衛首相に政治判断を誤らせ、日本軍を「南進」させることに成功した報告をゾルゲから受けてスターリンは狂喜したそうです。
ここからはアメリカ側の目線に移しますと、戦前の日本経済はアメリカ、イギリス、オランダ3国からの軍事必需品の日本への供給が全輸入の85%を占めている状態でした。そして、アメリカは公式的には満州事変と日華事変に反対し、日本への戦争関連物資の輸出規制を徐々に強めていきましたが、実際には原料綿、屑鉄、石油などの輸出は、日華事変以降急増しているのが事実です。
日本は過剰な人口、日本人移民を入れない世界の障壁(黄化論)、対外貿易への過度の依存、国民に雇用と食糧を保証するための物資輸入、そのために必要な輸出の拡大、という状況の中での欧米諸国による経済のブロック化の中で、日本の生き死ににかかわる問題の渦中にいました。しかし、満州に日本が戦略拠点を確保しますと、日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる日本の経済ブロックが完成し、日本は経済の安全保障の確立の計画が現実のものとなってしまいます。
イギリスとアメリカは日本のこのような政策に反対でした。そのために英米は蒋介石軍を援助し、すでに始まっていたヨーロッパでの第2次世界大戦の目処がたつまで日中戦争を続けさせ、日本が莫大な財政的損失を出してアジアで威信を失うまで日中戦争を続けさせたかったのです。そのために、当初は日中双方に、つまり日本に対しては正常な経済活動としての貿易に応じていたのです。つまりアメリカは、日本が米・英・欄などに資源を依存しているときは脅威と感じていなかったのですが、満州国を建設し、独立した経済圏を日本が確立させる方向に向かい始めたことに脅威を感じて、日中戦争に手を貸すことによって日本の疲弊を狙うと同時にヨーロッパで勃発していた第2次世界大戦の終息までの時間稼ぎもしたかったわけなのです。この時点で、スターリンと利害が完全に一致していました。
ところが、日本は泥沼化する日中戦争解決のために英米から中国の国民党への3本の軍需物資補給路の封鎖を進めていきます。最初に香港ルートを閉鎖し、続いて仏領インドネシア(現在のベトナム)ルートの閉鎖に注力しますが、ここで浅はかな日本軍の一部の暴走により一気にフランスと緊迫し、日本はその約1年前に日独伊3国同盟の締結をしていたために、連合国側はその後、日本に対する経済封鎖と続き、この時点から日中戦争が大東亜戦争へと拡大していく道が敷かれてしまいました。英米にとっては日本の脅威は最高位に達してしまったのです。
この結果、英米にはヨーロッパで起こっていた第2次世界大戦のあとに日本に対する問題に処しようとする余裕を無くさせてしまいました。ソ連にとっては願ってもない方向へと歯車が動き出したわけです。そして、中国共産党にとっては日中戦争時代の第2次国共合作のおかげで、国民党の影で力を蓄えていくことができました。その結果、ソ連はドイツとの戦いに専念でき、中共は戦後に国民党を倒して社会主義国家を建国できるほどの力を蓄えることができました。
大東亜戦争とは、日中戦争が拡大して米英の連合軍と戦うようになった戦争の総称として日本側が命名しましたが、第二次世界大戦とは、「欧州戦線とアジア戦線」を総称した用語で使われていますし、太平洋戦争は戦後GHQが命名した第2次世界大戦下でアジアで行われた日本との戦争のことを指しています。ですから、私は第2次世界大戦と大東亜戦争は異なる性格の戦争であったと見ているのですが、カンチャナブリで目にするお土産用の英語の本や各メモリアルなどで目にする英文の説明では第2次世界大戦という目線からの説明ばかりですので、どうしても先の戦争観が日本人の視点とは異なってしまいます。
第2次世界大戦後、アメリカはソ連との冷戦時代に突入しますが、これは戦前の日本が自らの全近代をかけて実践してきた政策と同じことであり、それ以前に日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったと見なしているアメリカの知識人がいることもアメリカの事実であり、そして懐の広さです。
対日関係をパールハーバー攻略とシンガポール攻略まで悪化させ、その結果、アメリカ人の生命と財産ばかりでなく、日本という極東の同盟国を失って、戦後は対共産主義の砦として日本の面倒を見なければならなくなってしまった当時の政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるという指摘もアメリカの知識人の中にはあるくらいです。
余談ですが、中華人民共和国の誕生にしましても、日本降伏の4ヶ月後、1945年12月、マーシャル(1947年1月、国務長官に就任)はトルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、中国に13ヶ月滞在しました。マーシャルは国民党軍と共産党軍に停戦を持ちかけ、蒋介石が大幅に譲歩して停戦が実現しました。しかし、翌1946年4月には、共産党軍が停戦協定を破り、長春を陥落させました。蒋介石軍は長春を奪い返し、共産党軍は北に遁走することになります。
マーシャルは、共産党の要請を受けて、蒋介石と交渉し、再停戦を実現させましたが、その後も共産党軍はゲリラ活動を続け、ダムや橋の爆破、鉱山や工場への攻撃を続けました。そのような状況にも関わらず、優勢な国民党軍を抑えるべく、マーシャルは武器や弾薬の通商禁止措置を取りましたが、その一方でマーシャルはソ連の共産党軍への支援は見て見ぬふりをしていました。
米国は国民党軍に対して軍事物資の購入の道を閉ざし、国民党軍が共産党軍をもう少しで撃破できそうになると、常に「停戦」と称してストップをかけるという不思議な状態が続いていました。蒋介石の勢力は1946年11月頃がピークだったようで、1948年3月には米国議会で蒋介石支援を求める声が高まり、2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援を行う案を議決するに至りました。
しかし、マーシャル国務長官とアチソン国務次官の牛耳る国務省は、早期実行を求める中国大使の懇請にもかかわらず、2ヶ月もその実行を棚上げにし、1948年6月にある上院議員から痛烈に批判されてようやく重い腰を上げましたが、それでもシアトルから最初の船積みが行われたのは11月9日だったために、この間に国民党軍の敗北は決定的となり、共産軍は翌1949年4月に首都・南京を制圧して同年12月には中華人民共和国の建国を宣言するという事態に至りました。
共産党軍の戦力はソ連のスターリンの武器援助によるところが大きく、当初は蒋介石の国民党にもスターリンは軍事援助をしていましたが、最終的にはスターリンの軍事援助を共産党軍を通すことで一本化に成功しました。そしてさらに、アメリカでも様々な謀略を展開していたようで、その結果としてルーズベルト政権の側近らに中国シンパの共産党員が多く、かれらが米国の外交をねじ曲げたという指摘もあります。(現在の状態もそれに酷似していますね。)
この結果としてその後、共産主義勢力の拡大を抑えるためにアメリカは朝鮮戦争まで行うわけですから、このアメリカ政府の対日戦後における中国への対応の不思議さは私には理解できない部分が多すぎます。
余談ついでに朝鮮戦争の経過についてお話しますと、1945年8月15日、日本は連合国側に降伏し、1945年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書に調印することになりました。
日本の降伏により、ソ連は慌てて朝鮮半島を南下し、38度線を境に日本領であった朝鮮半島の北をソ連軍が、南をアメリカ軍が統治することになりました。
ところが朝鮮半島ではその後、北の金日成、南の李承晩、などが入り乱れての政争が起こり、これに軍隊の反乱が拍車を掛けたために各地でクーデターや争乱が頻発しました。
このような状態が続いていた時、1950年1月12日にアメリカのアチソン国務長官が、アメリカの防衛線は、フィリピン―沖縄―日本―アリューシャンを結ぶ線だと発言しました。失言だといわれていますが、真意ははっきりしていません。
「朝鮮半島は含まれていない!」ことに注目した北朝鮮の金日成は、1950年6月25日、ソ連の支援を受けて南北統一に向かって動き出しました。韓国軍は軍隊とは言えない状態で、逃げまどう民衆と同じで敗走に敗走を重ね、韓国政府はプサンまで撤退しました。
アメリカはこの事態に激怒し、国連を動かして国連軍を仕立て上げ、9月15日にアメリカは仁川上陸を決行します。北朝鮮とソ連と中国は、アメリカの了解事項だと思っていましたから驚きました。国連軍は北上し、38度線を越えてもさらに進軍を続け、10月26日には元山付近に国連軍が上陸しました。このようにして、11月24日には北朝鮮のほうが事実上の敗戦に直面してしまいました。
この北朝鮮を支援したのが建国直後の中国でした。志願人民軍を朝鮮半島北部に集結させて一気に攻め込みます。戦線は再び南下し、翌年の51年1月25日にはソウルを越えた地点まで押し返しました。国連軍は態勢を立て直し、再び戦線を北へ押し戻しますが、二転三転したあと53年7月27日に休戦協定が成立することになりました。このようにして現在に続く38度の軍事境界線を挟んで南北に非武装地帯が設けられたのです。
休戦協定は、ソ連の提案で北朝鮮・中国軍と国連軍の間で会談が行われた結果です。韓国は戦争遂行能力がありませんでしたが、それでも「単独北進」を主張する韓国の意見はこの場では排除されての休戦協定でした。
このような結果としてその後の国際情勢が展開していきますが、その後米ソ冷戦に突入し、アメリカはソ連の脅威を封じ込めるためにニクソン政権時代には共産中国とまでも手を結びました。その後、中国が成長してきて脅威となると、今度はこちらを封じ込めようと戦略を練っています。
日本は戦後、外交や安全保障を全部アメリカに任せてきましたが、田中角栄首相のようにアメリカ抜きでアラブや中国と日本独自の外交をしようとする首相も出てきました。アメリカに逆らう首相としてはその後、細川首相や橋本首相などもいましたが、田中首相はロッキード事件で失脚し、細川首相や橋本首相の時代は日米関係では対日批判が大きくなっていました。逆に、親米の首相(例えば中曽根首相や小泉首相)による政権の時代は大変に長持ちし、そして政治が円滑に流れています。
最初に戻って泰緬鉄道のお話ですが、日中戦争が勃発した1937年を境として、中国共産党軍にはソ連から旧式の戦車や高射砲などが援助物資として供給されるようになり、国民党軍には米英からの軍需物資の支援が始まりました。先にも述べた経過を経て、中国への3本目である米英からの最後の物資補給路(ミャンマールート)を封鎖して日中戦争に終結の方向性を見い出し、太平洋戦争に関しては東南アジア諸国を独立させ、インパール作戦でインドを独立させ、このような状態で連合国との対等な講和に持ちこんで大東亜戦争の終結を促そうという戦略を日本軍は考えました。この戦略は当初は大変にうまくいき、多くの東南アジア諸国から歓迎されました。
しかしまもなく、日本軍のミッドウェー海戦の大敗北を転機に日本の太平洋戦争の戦局は次第に不利に傾き、ミャンマーへの海上からの物資補給も困難となり、そのために陸上からの軍需物資補給路として無理に無理を重ねて建設したのがカンチャナブリを通過する泰緬鉄道でしたが、これは日本の敗戦によって悲惨な戦争の歴史の証人として残り、その悲惨さから現在も多くの観光客を集めているわけです。しかし、カンチャナブリ県内各地の史跡にありますのは第2次世界大戦としての連合国側の戦争観からの説明ばかりで、日本側の視点からのものはありません。
少し補足しておきますと、日中戦争に関しては日本の陸軍は敗北感はなかったと思います。太平洋戦争は大負けしましたし、日本本土も戦禍が及ぶにあたって天皇陛下は終戦の決意をされましたが、中国戦線での日本兵には終戦の決意は敗北感が無かっただけにわだかまりが多かったと思います。しかし、それも当時の阿南陸軍大臣の割腹自殺による現地の日本兵への強い呼び掛けで日本は速やかに降伏をしました。このような終戦時の意思の統一の仕方も日本的な特徴と私は思っています。
私は大東亜戦争には二重の性格があったと思っています。1つは米英との帝国主義間の戦争という側面で、もう1つはアジア諸国に対しての侵略戦争という側面です。この後者の侵略戦争という側面は、当時の大アジア主義のスローガンを利用しながら、「脱亜論」の福沢諭吉につながる近代合理主義の考え方で戦争指導者が総力戦を遂行するために利用したと考えられています。しかし、現実に前線で戦った兵隊たちは純粋に大アジア主義を信じて、現地でその国の欧米植民地からの解放のために尽力した人たちが多かったことも事実です。東南アジアには、日本に感謝している国が多いのはそのためなのです。
そういう戦略での大東亜戦争の最後の切り札がインパール作戦でした。そのために、泰緬鉄道は日本の不利な戦局を打開する切り札としての逆転勝利の可能性を信じて必死に作られたという背景もあるのです。そのために日本軍鉄道隊は必死で作業をしましたが、結果的には「死の鉄道」とも呼ばれるように作業現場では悲惨な結果が続出していました。
当初、日本は戦争の詔勅で「自存自衛」のための戦争としていましたが、後には大東亜宣言を出して、アジア諸国の解放・独立を目的に変更するという複雑な戦略での戦争となりました。と言いますのは、どの段階で戦争をやめるかという目標が見えなかったからなのです。
第2次世界大戦や大東亜戦争、そして太平洋戦争、日中戦争などの呼び方の違いで、私にはそれぞれの戦争観は異なって感じますが、このような歴史を思い出すたびに、インパール作戦や泰緬鉄道建設という無謀にも始めてしまった太平洋戦争のわずかな勝機のために、現地で国のために尽力されて亡くなられた日本軍の方々や、そのために利用された戦争捕虜の方々、そしてアジア各地から集められた労働者の方々の気持ちを思うと、クワイ川鉄橋へ出かけるたびに私は黙祷せずにはいられなくなるのです。
日本の行動は、西安事件や南京攻略、そして南進論への転換など、ゾルゲ事件で代表される情報戦やソ連の権謀術数が背後で強く関わっていたようで、文官である当時の日本政府が軍の「統制派」の意見(背後にはゾルゲを中心とする共産党がいました)に乗せられて大東亜戦争への道へと踏み出してしまいました。
日本は1929年のジュネーブ条約に調印しますが、批准は軍によって阻まれました。軍は「捕虜になることは恥じ」と兵隊を教育し、1941年には東條英機陸軍大臣の下で野戦服務基準としての『戦陣訓』が施行されます。ジュネーブ条約を無視しての「戦陣訓」に見られる生命軽視、主体的思考の否定という思想が、その後の戦争捕虜の扱いを巡って様々な問題を生み出していきました。
日清日露戦争のころには存在した「名誉の捕虜」などという美談は、1937年度で小学校教育からは姿を消し、教育現場は次の3つの色合いで染められて行くことになりました。
・天皇制軍国主義体制による国民統合と、それを正当化するイデオロギーとしての皇国史観。
・植民地支配を正当化する国民意識、アジア諸民族に対する蔑視観。
・国民の人権を制限し否定することを当然とする天皇制国家。
今までに説明してきた大東亜戦争に至った過程で、国として大きな危機が差し迫ってきたときに上記のような日本全体としての体制や思想に急変していきましたが、このようなある条件下では大きくぶれやすいという日本人としての本質を考えることが先の戦争に対する本当の反省だと私は思います。また、大アジア主義を戦術面として利用して掲げ、南方進出を図りましたが、このようなやり方も反省する必要がありますし、開戦時に日タイ不可侵条約を一方的に破ってタイ南部へ強行進駐(タイ領土内通行承認が出る前に上陸しました)した日本のやり方も強引過ぎます。
しかし、上記のような思想や体制の変化にも関わらず、それに逆らって武士道の精神や明治人の気骨でアジアの人々に歓迎される接し方をした日本人も少なからずいました。それが現在でもアジア地域で旧日本軍が尊敬される温床となっている一方で、上記のような体制下で残虐な行動をしたケースがあったのも事実です。
泰麺鉄道の建設に従事されたオーストラリアの元戦争捕虜のアーネスト・ゴードン氏は、氏の著書の中で人権の感覚について次のように述べられています。
「私たちは日本兵が俘虜に対して残酷であることを体験してきた。それが何ゆえにであるということをいまはっきり見てとった。日本軍は自軍の兵士に対してもこのように残酷なのである。...(負傷兵)彼らは死を待つ人々であった。使い果たされた消耗品であった。戦争の廃棄物であった。」
国と国との話し合いが外交であり、外交で解決できないときに戦争となっていますが、戦争に対しても一定のルールがあり、そして倫理観があります。カンチャナブリの泰麺鉄道は、外交の失敗というよりも未熟さが原因であり、国際ルールの欠落や日本人としての倫理観が麻痺していた結果の汚点として、後世にその建設の歴史を伝え続けています。
外交は軍事戦略と経済戦略の土台の上に行う必要がありますが、現在の日本は軍事戦略はアメリカに依存しています。このような状態ですから、日本の近代史を正しく学ぶことは過ちを繰り返さないためにも必要なのです。
以上、日本人が過去の戦争の歴史に反省し、未来に何を活かすべきか、そのことについて考える参考意見として掲載しましたが、読者の皆様の参考意見をお聞かせ願えますと有り難い次第です。そして、ドイツ人のシュタインという方は、「世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰ってくる。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を作っておいてくれたことを・・・」と日本を賛美されていますが、私見は前段で述べましたので読者の皆様のこの言葉の意味することと考えることについてもご意見を賜れば嬉しい次第です。 |
|
|
管理者へのご質問は、下記からどうぞ。


|